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ビーズへの考え方




 









 

少数民族の品に関われば関わるほどその難しさに気づかされることがあります。

プロスポーツ選手が怖さを知らなかった新人の頃に出来たプレーが、経験を経ることで得られる未来予測からそれが出来なくなるのと似ているのかもしれませんが、この業界でよく言われてきていること、定説などが果たして本当に正しいのかという想いは、経験が増すごとに、知識が増えるごとに、そして研究機関と関わるほどに強くなっていきます。そして学問とは既存に疑問を抱くことから発展しイノベーションを繰り返し研ぎ澄まされていくものであるということも忘れてはいけないように思います。


例えば20代の頃であればこの装飾品はヤオ族のものですね・・と躊躇なく言えたものが現地を重ね、品数を重ね、知識が増えていくことで、もしかしたらこれはタイ族の可能性も排除できない・・となったりすることがあります・・・

 
それではもう少し具体的なお話をしていきます。よくチベタンアンティークの世界の珊瑚にまつわる話の中で「日本の珊瑚」が登場してきます。特にアンティークビーズの世界の中ではこの日本の珊瑚についてチベットでは古くから流通してきたということがよく聞かれます。それは販売に関わる骨董界からも持ち主であったチベット人からもその間を仲介するディーラーからの時もあります。そしてそれは12-16世紀の頃から日本からチベットに流れてきたと言う割と具体的な話もよく聞かれます。しかし日本の場合はチベットやその他の少数民族世界と異なり歴史的な研究は相対的に見るとかなり進んでいますので、それが事実であるのならば史料から確認できる可能性は非常に高くなります。そこで具体的に見ていきますと日本には珊瑚研究についてはいくつかの専門書が既に存在しておりそのいずれも日本が珊瑚を中世、近世に輸出したという記載はなくそれは明治期以降、特に多くなってくるのは大正から昭和にかけて、つまり近代でもごく最近になっての出来事であることが読み取れます。さらに12-16世紀、日本の学問的立場からいう中世の後の安土桃山、江戸の近世においてはより史料は詳細になっていきます。日本はポルトガルの布教活動を嫌いオランダとの貿易に集中する中で出島の建設を行います。1636年、寛永13年のことです。出島を築いた最大の目的は外国からの品物や文化の管理徹底にあり、当然そうした土壌は輸出入品の把握をより明確にさせていきます。当時の輸入品目が詳しく記載された史料「和漢三才図会」が長崎歴史文化博物館に所蔵されていますが、そこには主要な陶磁器などの輸入品以外のものとして沈香や水銀、鼈甲、そして珊瑚の記載があります。江戸の頃、珊瑚を日本はまだ輸入していたことがここからもはっきり読み取ることができます。つまり日本の珊瑚が近世以前にチベットに渡ると言うことは現在の史料からはなかなか説明できないという現実があります。しかし、我々のいる骨董界はというと、その世界にいる人間としてあえて申し上げればややもすると業界内でささやかれている定説やいわれに対して客観的な検証を怠ってきたというところがありまして、ここに関しては博物館など研究機関に真面目に寄り添っていかなければいけない部分であると常々思い続けてきたところです。

 
さらに別の例も挙げてみたいと思います。チベット色豊かな石として人気のペマラカにも同じ空気が感じられる要素が内在しています。当店は今まで相当の数量のペマラカを扱ってきました。その数は数千を数えるかと思います。そして多くは香港、台湾、中国、欧州の、中でもこの世界でも際立つ国外の愛好家に向けての提供をしてきました。先のヤオ同様にペマラカもこの業界で言われる定説のようなものがありまして、みなさんが最もよく知るつぶれた乱形楕円のもの、側面が微妙に落とされたやや歪む球体、そしてパンプキン型など紅色から橙色の色石で貫通穴が大きく粗い景色のそれが一般的にはそういわれるものです。実は多種多様ですけれど・・。おそらくその基準となってきたものはジー同様に中央、個人的にはこういう使い方はあまり好きではありませんが、物事をわかりやすくするためにあえて書きますが、ペマラカが最もよく見られた地域であるラサやシガツェなどを擁するチベット中央の人口と文化が集中する地域からカムなどを擁する東チベットの、中でもそれらに詳しい一部のチベット人達による思考がジービーズ同様に大きく影響してきたのではないかと考えます。ちなみに東チベットは歴史的に見るとラサなどを擁するチベットとは幾度となく争いを繰り返してきた地域であり、必ずしも同様ではないと考えていますがここではビーズというところに絞っていますので同様の扱いをしています。

先の話に重ねますがペマラカの基準とはどこにあるのでしょうか。どこまでがペマラカでどこからがペマラカではないのでしょうか。チベット人が守ってきた橙から紅色の石を言うのか、それとも先に触れた景色から判断をするのか。またそのいずれをも満たすものとした時それをどこでどう線引きをするのか。そもそもロジックを伴いかつ確信をもってそこを明確に説明できるものなのか・・・、数百のペマラカを見てきた頃は感じなかった疑問が千を超え、さらにその数が重なる度に、現地の経験が重なる度に、大きな問題となって自身の中に育ち始めて生きました。ちなみに自戒を込めてお話をしますと骨董界では簡単によくこうした色石をカーネリアンとひとくくりに称しますが、鉱物学的にはカーネリアンにとどまることはなく、むしろカルセドニーの一種でもあるアゲイトの要素、もしくはより淡いサードの要素がより強く、それを安易にひとくくりにしてしまっていること自体、学術的でも、論理的でもなく、我々の得意とする分野にのみこだわりをもち、他の分野には寛容すぎるという姿勢が垣間見えるという現状は加えておかなければいけない点で、学問としては未だおろそかであり、その点だけをみても非常に不安定な中にこの世界の現実はあると言えるでしょう。

また各少数民族の文化や形態は国境の様に明確な色分けができることはまずありえません。それはグラデーションにとなり、マーブルとなる。つまり濃淡も地域差も実に千差万別であって、時に混在することさえ珍しいことではありません。

一例をあげてみるといわゆるナガ族のそれと同様のものがあの周辺域には広がっています。
これはアンティークビーズを少々知っている方なら察しがつくと思いますが、ナガが愛したあの形状のビーズは実はナガだけのものではありません。これはその周辺域の多くの少数民族にも使用されてきた現実があり、その一部は当然ごく近隣のヒマラヤ圏にも及んでいます。チベットをどこまでチベットとするのかはチベット亡命政府と中国と国交をもつ我が国日本が異なるようにその見解の相違はあるものの、文化圏という見方であればそれはモンゴルからインド北部、シッキム、ブータン、アルナチャールプラデーシュに至るまで広範になります。そして中央という言いう方があるのだとすれば、先に示したようにその温度には中央を頂点として当然グラデーションが存在し、特にシッキムやブータン周辺のチベット系の人々、もしくはその他のチベットビルマ語系の各民族のそれは非常に微妙な景色を見せます。例えば最も南東に位置するアルナチャールのモンパ族の人々は珊瑚とトルコ石をチベット人同様に組みネックレスとします。そして彼女たちのトルコ石はチベタンターコイズとしてまぎれもなくこの世界に流通し続けてきました。このことはみなさんの知るあたりですとその西のタマン族においても同じです。そしてさらによく知るブータンもガロンやブムタンパであり、正確にはチベット族とはまた別とされます。しかしブータンのものがチベタンとして流通しないことはありませんでした。もし厳密にしていくのであれば彼女たちのトルコ石や珊瑚も「チベタン」ではなく、タマン族のトルコ石、モンパ族の珊瑚とするべきですが、この世界はそうなってはきませんでした。これには流通側の都合やそもそもの知識不足が大きく影響していたと思われますがつまりすべてにおいて未だこの世界は未熟で、グレーであり続けてきているということです。ですから学問として成立させるのであればペマラカだけにこだわることはむしろその他の多くの矛盾点においてもすべて蹴りをつけるということを意味し、当然、それが出来ぬ以上、グレーであり続けることを受け入れることも重要だと感じます。そして大事なことはその矛盾に葛藤し続け、恐れずより丁寧に説明をしていき新しい理論を構築していく姿勢だと思います。お話を戻しますがアルチャーナルはナガランド州と接しインド北部に位置するインドが実効支配している地域です。この地域のチベット族、もしくはそれに近い民族がグレーゾーンも一切なくナガやその他南アジア、東南アジアの人々が好む石を手にしないことの方こそ違和感を覚えます。事実、そうした現実が起こってきたことからこそ、当店はこうしてペマラカについても紹介してきたわけです。

ちなみに先の石についてさらにお話を重ねますとほぼ同じ姿のものがベトナムでも確認されています。ランドム省の少数民族が着用したもので、同国が20世紀に調査をし、同国博物館にてその報告書と共に展示されています。この地域はモン・クメール語族に分類されさらにチベットともナガとも離れた存在となりますがこれが現実です。ですのでこの姿はこれと断定するにはあまりにも軽率であって繰り返しになりますが丁寧な説明が求められるわけです。
当店には多くのチベット族の写真がありますが、実はチベット人は我々業界が呼ぶところのペマラカに留まらず多種多様なオレンジ色の石を身に着けてきたことがそれからも確認できます。一例をあげると私もお会いしてお話をさせていただいたことがありますが日本を代表するチベット密教世界の研究者でありコレクターでもある種智院大学名誉教授の北村先生のコレクションの中にも法具の装飾品にペマラカとは業界では呼ばないタイプのオレンジ色のアゲイトの球体が収められています。そして先に触れたように中央から離れれば離れるほど彼ら自身の認識も異なっていき、その線引きは非常に微妙となります。我々業界の人間はどうしても業界で言われてきたことから離れられず、しかもそれを崇拝しがちなところがありますが、時代は常にイノベーションを繰り返し発展していくものであって、立ち止まり、振り返り、検証し、挑戦することがなければ発展はありません。

私も20代の頃はペマラカに対する見方はまさに業界のそれと一致し、疑うことすらありませんでした。しかし、様々な現場と中央のみならず辺境の地に生きる多くのチベット人やその同地域に生活する他の少数民族との直接の交流の中でそう簡単ではない現実を数え切れぬほど目の当たりにし、果たして今までのそれが事実なのだろうか、本当にそれでいいのだろうかという想いはより一層深まり今に至ります。

当店ではそうした経緯と想いもあり、チベット人が実際に着用してきた事実とそれを守ってきた持ち主の考え方を反映し、業界の慣例となっているその範囲を広げペマラカとして表記しております。そしてこの現実を多くの業界人が知り再考していくきっかけにしていただければと思います。
 
 
当店は今までも幾度となくこの業界の定説や慣例に挑んできたように思います。そしてその度に業界から時に博物館からさえも反発が起こってきました。商売ということだけに終始するのであればこうした行動は無駄であり、静かにしていることが自身の利益の為には最も有効な手段だということはわかります。しかしこの国の一番の問題点は個人や組織が目先の存続のためにイノベーションのきっかけを摘み現状維持を促し、総論賛成各論反対を続け、挑む者を賛美できぬことだと思っています。そしてそれは決して良い未来を描くことはないと確信しています。ですから当店は止めることをしてきませんでした。

我々の業界は少数民族の立ち位置になるとみな口を塞ぎます。ビーズや装飾品のことはそれこそ饒舌であるのにそれを守ってきた人々の政治的、経済的格差についてはほとんど論じません。そういうダブルスタンダードな姿勢にこそ最も大きな問題があって、彼らの世界を愛する者としてむしろそのことの矛盾にこそ、最も焦点をあてるべきだと思います。

 
お話を戻しますが本来であれば学術界が中心となって様々な案件に対して世界的な規模でのコンセンサスの一致に向かうことが重要ですが、国立博物館をはじめ多くの博物館や研究者とのやり取りの中で思うのは、未だ少数民族世界の研究はまだ幼年から少年、青年期でありこれから多くの時間を費やしていくことになるというのが現段階ではないかと思います。当店ではそうしたことも意識し、また、通常の販売者やディーラーと異なり相当数を扱かわせていただいた実績を最大限生かす形で問題提起をも含めこれからも発信していくことができればと思います。
当店は単なる物販店に終始することなく、日本におけるアジアの少数民族の学術的発展に微力ではありつつも貢献できるのであればと願い、また今までの論とは異なる発信が再度の検証を促すきっかけとなることを望み、今後も様々な情報を届けていきたいと思います。